『人生を丁寧に生きる』

「孤独という罰」大江 憲成著参照引用

宝物には「世間の宝物」と世間を超えた出世間の宝物、つまり「仏法の宝物」とがあります。
世間の宝物は魅力があります。お金を積まれたら、なかなかイヤだとは言えません。
生きていくことは大変なので、いつも頼りになる宝物を身につけてそれを支えとして生きていこうとします。
お金であったり、権力であったり、名声であったり、それは世間で力のあるものです。
現代はお金の時代、社会は経済が基本であるようです。
お金が多いと優秀、少ないと劣等、そこに優劣が生まれます。人は劣を嫌い、できるだけ優になろうと努力しています。

ですが、宝物であっても「世間の宝物」にには大きな欠陥があるのです。

それは人を活かさないという欠陥です。

必ず比較による価値、希少価値による輝きだからです。
ダイヤモンドも河原にゴロゴロしていたら見向きもされません。
また、世間の宝物は一個人のみが専有することに意味がありますので、やはり人を活かしません。つまり、自分が所有して他人が所有していないものほど価値があるのです。
したがって、所有すれば自らは高慢になり他者を卑下し、逆に所有していなければ自らを卑下し他人を妬みます。
本当にお互いが尊重し合う人間関係が開かれません。
どうも世間の宝物を集めていった果てには孤独が待っているようです。

こんな話を思いだします。
小学校の授業参観日のことです。
Aさんは夫が買ってくれたダイヤモンドの指輪をはめて意気揚々と参加したのです。
そこに日頃あまりいい印象のないBさんが来ていて、ふと見るとBさんの指に自分のものよりもずっと高価な指輪をはめていた。
Aさんはそっと自分の指輪を外しポケットに入れ、帰ってすぐにタンスに直しました。
せっかくの夫の愛情をも妬みによって無視する結果になったのです。
考えさせられる話です。