有難うおかげ様すみません 忘れないよう心がける

喜んで生きる暖かさに人は甦る雑賀正晃 著 参照引用 

仏教で戒める「堕落」ということは「思いあがること」だと申しました。

ということは、百八つとまで細かく徹底して教え立てられたる煩悩の中で、最もおそろしい煩悩は「慢」というものんだよと戒められてあるわけであります。

たしかに、世にこの「慢心」ぐらい鼻持ちならぬものはありません。

その心のおそろしさは「人を見下げる」のならまだいい方で、遂には「人のつまずくのを待ちわびる心」にまでなってしまうからです。考えてもごらんなさい。

ひとの幸せになっていくことがなんともねたましく、うらめしくやり切れないというほどの貧しい心がどこにありましょうか。

また、その心の貧しさがこんどは、幸せな人をなんとか引きずりおろしてやりたいとの思いまでをかき立てて、それが行動となってあらわれるとき、「かげ口」や「為にする悪口」となるのです。

そして、その内容はとみれば、あることないこと撞き混ぜて悪口雑言となり、その口の動きがまた更に己の慢心をかき立てて、ますます「ひがみ」や「ゆがみ」の世界へと自身を追いやっていくのです。

即ち、優越意識の強い人間ほど、また劣等意識も同じように強いのだということに外ありません。

ひとを悪しざまに言うことにのみ快感を覚える人間ほど浅ましいものがどこにありましょうか。

「慢」は「疑」と「見」を生むと釈尊は戒められました。

平たく申しますと、先ず「疑」ということについてでありますが、自惚れの強い人間は人のいうことが素直に聞けないということであります。

またそのような人間に限って、表面上だけは上役にぺこぺこしておべっかを使うくせに、ひとたび下の者に対するときには全く人が違うのではないかとさえ思うほどに豹変して、たちまち居丈高になるのです。

()言い聞かされることを屈辱としか受けとれないのであればその心はあまりにも狭すぎではないか。