如来の善悪に立ち返って自己見つめる
『この人生を生きる』雑賀 正晃師 引用参照
人間は、誰しもその人生に光あらしめたいと願っているのであろう。
いや、むしろ、光あらしめたいという願う者のみを人間と名付けるという方が正しい。
とはいうものの、世の中は広いといい、人さまざまというか、(略)「生まれたついでに生まれたついでに生きている」としか思えないような連中もいることはたしかである。
金だけが味方、地位だけが誇り、娯楽だけが生き甲斐、一杯飲んで歌う事だけが人生としか考えていない「大人」があまりにも多い昨今ではある。
これらのすべては、要するに「無自覚」ということが根本の問題であろう。
人間が人間になり、そして人間であるためには「これだけが生ではない」という第二の誕生ともいうべき目覚めが出発点とならなければならない。
なぜなら、己れの人生に光あらしめたいという願う者のみが「教」の前にひざまずくことが出来るからであり、み教えに遇うことによってはじめて「己れ自身が問題になる」、言葉を換えればそこに「目覚めの世界を生きる」人生が開かれるに違いないからである。
重ねて言う。
ひざまずくことを知らず、仰ぐ世界をもたぬものほど「心貧しき者」はないのである。
釈尊御年八十年、ご入滅の時、ご臨終もま近いとみてとった弟子が(略)「世尊に別れて後、我々はなにを灯とし、誰を師と仰いで生きればよいのか」と悲痛な思いのままを吐露したとき、「自己を灯と為(な)し、自己を師と為(な)せよ」とご遺訓された。
このご遺訓こそ、我々仏教徒にとってというよりは、少なくとも人間として生きようと願う者にとって、肝に銘ずべき金言(きんげん)である。
(略)だからこそ法を灯と為し法を師とせよと教えられる。