自分ごとになったら人間は考えざるをえない

『この人生を生きる』  雑賀正晃参照引用 

由来、日本人の性格の大きな欠陥の一つとして「考える事の嫌い」な点が挙げられています。
確かに考えるという事が不得手のようであります。

ものごとを深く考え、そして鋭く追及しようともせずに、いとも簡単に割り切ってしまいたがるのです。

「花は桜人は武士」と云われてまいりましたように、その単純さは一つの美点である事もたしかです。
しかしその反面において人間を深めるという点で大きな欠陥である事も忘れてはならないものです。

「考える」という事がなければ、「悩む」という事のあろう筈がありません。
「悩み」がなければ「教え」の聞けるわけはないでしょう。

人生の歩みの中に、「問題」一つも持たないという事ではどこに進歩があり、発展がありましょうか。

「思考、思索」があって「苦悩」が生まれ、「苦悩」を持って始めて「聞法」の場が開けるのであり、「問題の解決」にこそ人生の歩みの深みが帯びるのであります。

ある処に参りました時、文字通り青菜に塩といった格好で、「行きづまった」と悲しんでいらっしゃる方が訪ねて来て下さったのです。

色々話し合った末にこう申し上げたのです。

「進んで来たからこそ行きづまったのではありませんか。進歩がなければ行きづまる事もないのでしょう。
悲しむことなんか一つもないじゃありませんか。
それこそ()手を挙げて座り込んでしまうのか、あるいは、さっさと今来た道を引き返すのか、その障害を跳躍台として大きく飛躍するのか。
ほら、ご覧なさい。
さっきからあの窓ガラスに何辺も体ごとぶっつけて、外に出ようと蠅が懸命に努力をしていますが、あれじゃ何年たっても出られるわけじゃない。

()一歩だけ退いてみればすぐ横は、開け放たれている事がわかる」実は壁が厚くなるのではなく自分で作り上げているのではありませんか。