必ず浄土に生まれさせ仏と成す 如来の救済はこれに尽きる
『自己を灯と為す』 「旅は他火である」雑賀正晃 著 参照引用
人生は旅だというが、往き先がはっきりしていなければ、それは「放浪」(ほうろう)であって「旅」とはいえまい。
「旅」とは「方角が定まる」ことであってみれば、浄土を持つ者にしてはじめて「人生は旅である」といい得るのである。
一日一日が浄土への旅、一日くらせば一日だけ浄土が近づく。
愛する人と別れて淋しさをかみしめるとき、この世が淋しくなればなるだけ「お浄土がにぎやかになっている」ことに思いが転ぜられるとき「淋しきまま」に「心が安らぐ」のである。
“別れ途(じ)をさのみなげくな法(のり)の友またあう国のありと思えば”
しかも、「旅は他火(たび) である」と誰かがいったが、他人(ひと)も心へ火を灯す旅。
他人のまことがこの私の心にあかあかと火を灯して下さる他火。
この人に遇い得たことによって、この私の心にいま明るく灯がともされた。
あのことに出くわしたおかげが、また一つの灯がともった。
人をなつかしみ、人を愛(いと)おしむ。
その人との間にいい知れぬぬくもりが通いあうとき人間は誰しも生きてあることの幸を存分にかみしめることが出来るのである。
それのみが、“散ってのち面影に咲く牡丹(ぼたん)かな”
その人が、たとい私の眼前からその姿を消してしまったとて、そこに別れはない。
散ったその時からあざやかにこの胸の中に面影の華がひらいてくれるにぎわいこそが、淋しさにも耐え得る世界を恵んでくれるものである。
旅とは、かくも素晴らしいものなのである。
そこにはじめて、「生きて甲斐あり」といい切れるであろう。
この人を「菩薩(ぼさつ)」と名付ける。