諸行無常は世間ごとでない わが身の上にこそ現れる

『自己を灯と為す』雑賀正晃著 参照引用 

本当のことが聞けて、本当のことがいえて、本当のことが通じる。

そんな間柄を親鸞聖人は、「真仏弟子(しんぶつでし)」と喜び、「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」と称した。

「さほど驚くことではない」という言葉までが通じる世界である。

ここで「無常観」ということについて考えてみたいと思う。

釈尊が「人生」を「苦」としてとらえ、人間誰しもあわねばならぬものとして「四苦(しく)・八苦(はっく)」と数えられたことは先刻承知のことであろう。

「四苦」とは「生(しょう)・老・病・死」である。この中でまず「老」と「病」が苦であることについては誰一人異存はあるまい。

かくいう私自信、ついこのほど「入れ歯」をした。

上下共だめになって、仕方なく歯科医院の門を叩いた。

固いものはなんにも食べられなかったものが、入れ歯のおかげで、なにより大好物のおつけものが噛めるようになったのは有難いことだが、なにより困るのが仕事がら正常にものが喋れないことである。

殊に舌音(ぜつおん)の発音がスムーズにいかないので、そのうえ時とすると上の入れ歯が笛の作用をして、声と共にヒューと奇声を発するのである。

(略)ただ一つの取り柄は、寝る時ははずしておくから絶対に「歯ぎしり」はしないということである。

しようにもその歯がないのである。

もちろん、とっくの昔に老眼鏡のお世話になっている。

それも最小三個は必要である。

(略)いろいろ度にかけ直さねばならぬ。

いつもかけていなければお相手の顔が見えない。

(略)どこかのお寺の掲示板に

「むやみに子供を叱るな お前さんが通って来た道じゃないか。年寄りを馬鹿にしなさんな 今にお前さんもそうなるのじゃ」

とあるのを見て、身に沁みて読んだ記憶があるが、確かに「老」は決して楽しいものではない。