どんな一日、心であっても朝晩如来さまに手を合わそう

『念佛春秋』第二集 直枉会編 参照引用 

できれば清らかな気持ちで一生を送れればと思うのでありますが、そうもいきません。
きれいな心は長続きしないものであります。

仏法を聞いている人はどことなく柔らかみがあるといわれますが、いかり腹立ちの心がなくなったということではありますまい。

「凡夫(ぼんぶ・ただびと)だからこれでいいのだ」
ともいえぬのであります。

妙好人の善太郎さんは、ある日、妻と口論になり、とうとうカッとなって手もとにあった割木を振り上げました。

その時、如来さんの喚び声を聞いたのであります。

そして、「ああ、善太の自性が出ました」とその割木をお仏壇にお供えして念佛されたといわれています。

善太郎さんは、カッとなった時に如来さんの喚び声が聞こえたのであります。

日頃、お聞かせいただいている凡夫なればこそという、その凡夫が私であったと聞かれたのであります。

私達はややもすれば、聴聞している間だけ凡夫で、平ぜいはあとで何をいったかさえも覚えていないほど我を見失っているのでありますが、その私こそ如来さんに喚ばれているのであります。

清沢満之先生は、
「我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷わさるることなく、我、他力の救済を忘おるるときは、物欲のために迷わさるること多し」
といっておられます。

如来さんの喚び声によって、この私の正体が煩悩具足の凡夫であるとしらされるのであります。

思い、煩う心のままで合掌するのであります。