貰う(頂く)事のむつかしさ
『この人生を生きる』 雑賀正晃師参照引用
世の中の人は、与える事はなかなかむつかしい事だけれど、貰うのは、いとも簡単なこと事位に考えているようですが、果たしてそうでしょうか。
与える事も勿論至極のことではあります。
それと同様に、頂くと云う事が、どんなにむつかしいものであるかを知る事も、与える以上に大事な事でもあります、自分の家内の例を引いてすみません。
それはお前の女房だけだよと云われるかもしれません。
又、私の家内も、近頃そうではない事を、彼女の名誉の為にも申し添えますが。
さて、年中を旅の生活に明け暮れる私のこと、妻と云っても実際は別居同様、申し訳ない事ですが、留守番ばかりさせて居るものですから、時には、珍しい物や旅先の名物などを買って帰ります。
喜ばしてやりたいと同時に、いつも留守ばかりさせているお詫びの意味もある。
兎に角、喜ぶ顔見たさに、旅の中に、コーヒー一杯をも飲むのを貯めて、買って帰るのです。
「ハイ、お土産」
「何ですの?コレ」
「何でもいいじゃないか、開けてみろよ、開けたら分かるよ」包みを開けます。
中から反物でも出てこようなら、「いくらしたの?コレ」必ず、こうなるのです。
「いくらだっていいじゃないか」
「でも、云ってくださいな、高いんでしょう」
「ああ、高かったよ」私にしてみれば、値段なんかどうでもいい、ただ喜ぶ顔が見たいのです。
それに、喜びもせず、
「ねえ、いくらしたのよ」
「一万円」
「マア、一万円!こんな高いもの!勿体ない!」
喜んでくれるどころか、叱られてるみたいです。(略)「折角買って来たもの、戻す事なんかないから、貰っとくわ」と。
どうせ貰うのなら喜んで受け取ったらどうでしょう?下手だなあと思うのです。
「まあ!素敵!こんないいもの。嬉しいわ、何ていい柄なんでしょう。前から欲しいと思っていたのよ。ああ、嬉しい、すみませんこんなに心を配って頂いて!」
どうです。喜ぶ姿を見て、ああ、よかったと満足する。