人生に無駄はない味のある人生を生き抜こう

『喜んで生きる』  雑賀正晃参照引用 

「先生は一体何がお好きなのでしょうか」
「お漬ものなんです」
「へー?」ご冗談ばっかり。

さて、そのお漬ものなのですが、三百六十五日、しかも三度三度なければならぬほどのあの「うまい味」の出てくる要素は考えてみますと四つの条件にあるのです。
考えてみますと、「寒風・糠・塩・重石」この四つが揃ってはじめて、なんともいえぬ味をかもし出すのだということです。

高齢者教室に講話を頼まれたとき、どんな講題を出して下さるのかというお話でしたから、「老人になる為の高齢者教室」と申し上げてところ、「どういう意味でしょうか。」「お分かりにならねば、お聞き頂ければ納得して貰えるのではありませんか。」と答えたのでありました。
高齢者というのは年さえとれば誰でもなれるのです。
七十五回雑煮を食べれば七十五歳。
八十三回正月を迎えれば八十三歳。
だれでも高齢者なのでしょう。

「老」とはなにか。

禅宗などでは管長さんなどを「老師」さまと呼びます。
「年が上」という意味ではありません。
「大導師」という意味であります。
『阿弥陀経』には、「長老舎利弗」とあります。
「舎利弗が一番年寄りであった」という意味ではありません。
「長老」というのは「上席」という意味なのです。
だとすると、「老人」とは「尊い人」という意味であり「出来た人」という尊称でありましょう。

「老人になる為の高齢者教室」がこれでお分かり頂けるでしょう。
ただなんとなく年をくっていくのではなくて「味のある人間」になりたいものだとしきりに思うところであります。
はっきりいって、思うようにならぬところ、悲しいこと、つらいことに出遭ったとき、「しめた!」とまで言える人間でありたいものだと思うのです。

「いつ死んでもいい」のではなく「いつまでも生きていい」といえる人間にお育てを頂くのが浄土真宗(真宗)なのであります。