風がなければ旗は美しくない

『喜んで生きる』  雑賀正晃参照引用 

NHKテレビが、一日の放送をニュース・天気予報で終らに了するとき、最後に「君が代」の奏楽と共に、風になびく日章旗が美しく映し出されます。

みなさんの中にはこの時間までテレビをご覧になる方はそう沢山はいらっしゃらないと思われますが、私は旅先で夜の講話が終わるのが大体午後十時ごろ、この最後のニュースを見せてもらってから、ひとり静かに原稿を書き始めるのです。

処でこの日章旗なのですが、これが風になびいていればこそ美しいのであって、もしもこのとき、無風状態で旗竿に巻きつくように垂れ下がった旗が映し出されたとしたら、恐らくは誰もこれを美しいとは思わないのではないでしょか。

ところが世の人々の中には、「人生が無風状態であること」だけが幸福の条件でもあるかのように思い込んでいる人があまりにも多いようであります。

だからこそ、願わ わくは無風であってくれるように、と神に祈り仏に願い、おみくじを引き、お百度を踏み、占いやらまじないやらと、あたら一生を愚かなことにのみに明け暮れてしまうのです。

私達からみれば、あまりにも哀れな生き方しか出来ていないこの人たちにこそ「まことのお救い」に遇わしていただいた身の幸せを、この身を以ておわかちさせていただくことが、念佛者としての大切な生き方であります。

仏智に遇うということは「祈りなき身」にお育てを頂くことであります。

「風が吹いてもかまいません」と言い切れる人間にならして頂ける幸せであります。

大悲に遇うということは、更に「この風があればこそ旗が美しいのです」とまで言い切れる喜びを生きる力として頂戴することであります。