ナンマンダブツのある日暮し”拝み倒せ”
『喜んで生きる』 雑賀正晃師参照引用
北九州市の門司に、yさんという、目を輝かして法を聴いてくれる人がいます。
そのyさんがあるとき、こんなことを聞かして下さったのです。
「私は若いとき、なにをやってみてもうまくいかず、焦れば焦るほど借金が嵩むばかりで、とうとう切羽詰まって“死のう“とまで思い詰めたのです。
その時です。
ふいっと“おふくろ“の顔が脳裏を掠めたのです。
しかもそれは、さも嬉しそうにお念仏しながらいそいそと働いている顔だったのです。
“いま死んだら、この俺は一体どうなるのだろうか。
どこへ行くのだろうか?
あんなにも貧しい、その日ぐらしの中にありながら、おふくろさんのあの嬉しそうな顔。
おふくろにあれだけの顔をさせるナンマンダブツ一体なんなのだろう。
それを聞いてから死んでもいいではないか!
矢も盾もたまらず、その足でお寺へ駆け込んだのです。
それがご縁となって今日まで聞法の道を恵まれてきました。
死のうとまで思いつめて、死ぬ前に“死んだ先“のことを聞いてからでもおそくはないと思って聞きはじめ、結局分らして貰ったことは、お念仏は
“死の為の用意なのではなく、喜んで生き抜く道“
でございました。
この私の今日のありますのは、ひとえに母のおかげだったとおもいます。」
そのyさんの甥に当たる青年がある夜、講話のあとで訪ねてきてくれました。
「私は、父や母から拝み倒されて、やっと聞く身にならして頂きました。」
と語ってくれたことでしたが、「拝み倒された」という言葉の中にこの青年の胸のときめきが聞こえるようでありました。(略)「拝み倒されました」
と目覚めるとき、この身に注ぎつめてくれてある大悲の温かさの中に生の鼓動が波打つに違いありません。
本気で「参って欲しい」と願い望むなら「拝み倒す」ことです。