拝まないときも 如来さまに拝まれている私

『安らぎの世界にかわる』 東井義男師参照引用

まだ学校給食が今のように普及していないころ、私は子どもたちに「自分の弁当くらい自分で詰めてこい」と言っていました。
お母さんの忙しさをよく知っていたので、少しでもお母さんの手を取らせないようにさせたい配慮からそう言わずにおれなかったのでした。ところが、これは私の間違いではないかと思うようになりました。
それはときどき、お母さんに弁当を入れてもらった子どもの、弁当の蓋をあける時の、何とも言えない楽しそうな顔、蓋の横から、何が入っているかのぞき込むようにして、やおら蓋をあける様子、好きな卵焼きなんか入っていた時の、何ともいえない美しい顔の輝きなどを見ていると、お弁当の時というの は、私は、お母さんとの出会いの時だと思うようになったからです。
そして、輝雄君が次の詩を見せてくれてからは、その思いが決定的になってしまいました。

かつお(かつおぶし)
けさ学校に来がけに
ちょっとしたことから母と
言い合いをした
ぼくはどうにでもなれと思って
母をぼろくそに言い負かしてやった
母は困っていた
そしたら学校で昼になって母の入れてくれた弁当の蓋をあけたら
ぼくの好きなかつおぶしが
パラパラとふってあった
おいしそうに におっていた
それを見たら
ぼくはけさのことが思い出されて後悔した
母はいまごろ
さびしい心で 昼ごはんを食べているだろうかと思うとすまない心が
ぐいぐいこみあげてきた

というのです。
「すまない心」というのは、人間の一番奥底に潜んでいる一番人間らしい心です。
いのちの真清水とでもいうべき心です。
言い負かして得意げの輝雄君は「お弁当」を通じてお母さんに出会っているのです。