私も許されている

「私も許されている」山田教尚師引用参照
年が改まって、早や一か月余も経ってしまいました。
月の初めは法語カレンダーをめくるのが楽しみです。
今月(平成七年当時)は、六年前に四十七歳で往生された、北海道の鈴木章子さんの「許す許さぬは 外への視点 視点を内に転ずれば 私も許されている」という言葉でした。
彼女が四十三歳の時、癌を告知されてから、大学ノート五冊に書き遺された随想と詩から、私は多くのことを学ばせていただいています。数年前、法語カレンダーに、木村無相師の「今 今 今 たった今死んでも 生き甲斐あったか」というお言葉を拝見したとき、頭の中が真っ白になりました。俺の生き甲斐は何なのかと思ったのです。
以前求めた木村師の『念仏詩鈔』という本があったことを思い出し、早速それをパラっと開けると、ご信心と題して

「わたしの信心 雪だるま おテントウさま出りゃ すぐとける おテントウさまがご信心」

という詩が目にとびこんできました。生き甲斐があったか、と問われて、俺の生き甲斐はと一生懸命探していたのです。
一日一日を、一瞬一瞬を生かされているとよろこんでいれば、それが尊い生き甲斐ではないでしょうか。
何か形になって遣っているものを生き甲斐とみたり、この世におれが生きた証しは何かと思っている自分自身をみたのでした。
私の信心、私の遺すものは雪だるまなのです。
鈴木章子さんは、最初の左乳房の癌の手術のとき、実父から「生死はあなたの考えることではない、人知の及ばぬことは、お任せ以外にない。
自分で何とかしようとすることは傲慢である」と手紙で諭されてハッとされたのでした。
私の周囲全てのものから許されて、生かされていると、知らされたとき、私の称えるお念仏は阿弥陀さまからの賜りものとだったと気づかされます。
賜った信心をよろこばせて頂きます。