ほんものとにせものは見えないところのあり方でわかる
『「こころの味」を大切にする家庭』 東井義雄著引用
わたしの学校の竹箒(たけほうき)部屋の竹箒は、今日で二百日あまり、倒れたり、傾けたり、ひっくり返ったりすることなく整列していてくれる。
百三十日目くらいだったろうか、朝礼のとき、わたしは一メートルばかりの大きな温度計をもって台上に立った。
「けさの温度は何度くらいだろうか」
というようなところから温度計に注目させ、毎日寒い日がつづくから、温度の低いことを話し、
「でもね、みんなの中には、誰かしらんけれど、温度計のてっぺんまで赤い棒が伸びるほど、心のあたたかい子がいるらしいんだよ。
校長先生は毎晩、学校を見廻りにやってくるんだけど、どんな夜半でも、竹箒がきちんと行儀よくならんでいるの。
今日で百三十日目くらいだと思うんだけど、倒れていた日は一回もないんだよ。
竹箒をかわいがってやってくれている心のあたたかい人は誰なの?手をあげてみてください」
と言った。
一人も挙手する者がなかった。
「誰かしらんけど、とっても心のあたたかい人がいてくれることが、先生はうれしくてならないんです。みんな、人を困らせたり、物をいじめたりなんかしない、心のあたたかい子になってくださいね」
と言いながら、わたしは温度計をかかえて台を降りた。
それから、少し日が立って、四年生の男の子が箒をまもるためにがんばってくれていることがわかってきた。
わたしが、いつか
「ほんものとにせものは、見えないところのあり方でわかる。
それだのに、にせものに限ってみえるところばかりを気にして、飾り、ますますほんとうのにせものになっていく」
と話して以来、人に見えないところでいいことをがんばるようになったのだ、ということであった。