一日一日老い果ててゆく必然の道の人生に気づかされる

この人生を生きる雑賀 正晃 引用参照

私のような者でも、まだまだ若いと思って来たのに、そろそろ「老い」を感じます。

釈尊は、八苦と示され、生、老、病、死の四苦に加えて、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五陰盛苦の八苦が人間の苦であると示されましたが、これを「老苦」の面だけで考えても、愛別とは、一番大切なこの肉体の元気さと別れる「老」遂には肉体とも別れる「死」という事もその一つ。

怨憎会苦、にくいものとあわなければならぬ事の最大は、病と死にあう苦でしょうし、求めて得ざる最大の苦は、不老長寿の薬がなかなか見つからざる事でありましょう。

然し、これらを総て、解決する道があるのです。

「長生不死の神法」が念仏であると喝破された親鸞聖人の喜びに逢う事です。

別れたくない娑婆であり、離したくない恩愛の絆でありますが.必ず切れる時が来るのです。

そこに、大悲の願を聞くのです。

親鸞聖人は「いささか所労のこともあらば、死なんずるやらんと心細くおぼゆる」と仰せになりました。

聖人は「虚勢を張ることが出来なかった人」です。死にたくない、だから悲願があるのだと、聖人は教えて下さるのです。

溺れる者だけが救われなければならぬからです。

死にたくないままに、死んでゆかねばならぬから、「力なくして終る」のだ。と仰っしゃるのです。

その時こそ間違いなく「安養の浄土に召される時」なのです。

何故なら「死にたくない奴」と見定めた上での本願なるが故にです。

「老い」というものがその味わいを理屈なしに、情感としてしみじみと味あわしてくれるようです。

「無駄に年はとらぬ」と申します。

又とってはなりますまい。「老い」こそ、より法を素直に仰ぐ、手がかりのようにも感じます。