「あの失敗があればこそ」 乗り越えたときにいえる人
『この人生を生きる』
「物と心」 雑賀正晃著引用参照
幸になりたい。それが万人の願いです。不幸になりたくない。それがだれしものの悲願でありましょう。
洋の東西を問わず、昔から幾多の幸福論が、沢山の人によって説かれて参りました。
それにしては、幸を心から喜んでいる人の少ないのは一体どうした事でしょうか。
そんなにも、幸とは遠くにしかないもの、なかなか手の届かぬものなのでしょうか。
本で読んだ記憶があります。
大阪である金持ちが、その人はなかなかの慈悲深い人で、街のそこここに群がるホームレスを見て、いかにも気の毒に思い、せめて一夜なりとも、彼等を招待して、たらふく食べさせ、飲ませてやろうと考えたというのです。
喜んだ彼等がやって来て、飲めや歌えやの大騒ぎ、その有様を見て
「ああ、いい事をさせて貰った。こんなにも喜んでくれるのなら、せめて月に一度位は続けさせて頂こう」
と考えた。
処が夜更けと共に、三々五々帰っていく、いつしか一人も居なくなった。
処が、その後を見て驚いた。茶碗が転がっている、御飯が散らばっている、杯が散乱している、酒が流れている、酔った挙句に吐いたものが異臭を放っている。文字通り落花狼藉。
その有様を見て、思わすためいきをついた主人は考えた。
「貧乏は金で救える、飢えは食物で満たされる。
然し、この心の貧しさを何で救うか。
この人達に飯を恵む事も大切な事に違いない。
然し、もっともっと大事なことは、一粒の米の尊さをこそ知らせる事ではないか」そうです。
うまいものをまずくしか食べられぬ人、反対に少々粗末でも美味しく食べる人も居る筈です。
「食」一つを考えても、何を食べるかよりどう食べるかの問題が幸を喜ぶ大きな地位を占めるように、どんな時でも微笑める心の豊かさをこそ、学ばねばなりません。