「必ず間違いなく仏にする」如来からの大安心(お救い)ナンマンダブツを聞けよ

自己を灯と為す 雑賀正晃参照引用 

 世の中には「老苦」も「病苦」さえも全く知らないままにその生涯を終える人もいるのである。

たとえば、病を知らなかった若者が元気のあまりその元気さが仇となって事故死でもしたとすると、老苦はもちろんのこと病苦さえ知らなかったということになる。

八十年の長い人生を生きて、ただの一度も医師に手を握ってもらったことのないという人を私は知っている。

このように「老病」の二苦にはあうことなく、その人生を終える人がいたとしても、「死」だけは誰一人として逃れるすべはないものであり、しかもその死は「いつ」「どこで」「どんな形」で 訪れるやも知れぬのである。

「死」は予告なしであり、まさに抜き打ちなのである。
しかもこの「死」は実は、「生まれたそのとき」から「生」と同居しているのである。

「死ぬ」ということは「生まれた」その瞬間からすでにまぎれもなく決定的な事実である。

仏教ではこれを「生死(しょうじ)」ととらえるゆえんがここにある。
だから、「死」を見つめないところには「生」そのものが意味を失うということである。

仏教が「死」を力説するのは、「死ぬから」ではない。ましては「死ぬため」にでは更にない。

「死ぬこと」を聞けというのである。

なにが間違っても、これだけは間違いなくやって来る。
逃れるすべはないのである。

しかも、それは「今」かもしれないのである。
その厳粛な事実から「目をそらすな」というのである。
「見すえてみろ」というのである。

死んで当然であって驚く方がおかしいといわねばならないのである。
ということは「驚くべきことがほかにある」ということ。

それは「死んで当たり前」の生命しか持っていないこの私が、間違いなく「いま、生きてある」という厳然たる事実である。