なんの力もない 自力無効の教えが身に染みる

自己を灯と』  雑賀正晃参照引用 

二十五歳の新妻が癌「がん」で亡くなった。
二十八歳の夫の献身的な看護が病院中に大きな感動の嵐を巻き起こした。

彼は妻の入院と同時に勤め先に休職届を出して上司の理解のもとに妻の死まで付き切って看病したのである。

亡くなる六日前のこと、最後に私が訪れた時に彼は言った。
「先生、うかうかとは聞いておらぬつもりでした。
でも、やっぱりうかうかと他人事(ひとごと)に法を聞いていたのですね。
今になって今までの聴聞が骨の髄までこたえるような気がします。
中でも自力無功(じりきむこう)というお言葉の深さにはひと言の弁明さえ許されない厳しいものを戴きます」

ここで「自力無功」ということについてふれておこう。
私はこれを「自力無効」「自力無功」と二通りの言い方をすればなお一層徹底して親鸞聖人が教えようとした、あるがままの、そしてかくあるべき「人間の生きざま」が浮かびあがると思っている。

まず、「自力無効」である。己の力はなんのお役に立っていないということ、「効無し」ということである。
ところが人間であるというものは、なんの役に立っていないくせに私はこれだけのことをしていると力みかえりたいものである。
それは自我のみにくさであり、その自我の心は常に相手に礼を言わそうという驕慢となる。
だから相手は尚更「いうまい」と力み「私だってこれだけのことをしている」とお礼どころかこれまた己を自慢しようとかかり果てる。
考えてみれば、驕慢と驕慢とが一緒に住んで心和む世界のあらわれる筈はないということである。
「自力無効」の己れを知るということがどんなに大事なことか思い知る必要があろう。

次に「自力無功」。
己れの行為は「なんの役にも立ってはいない(無効)から、何の功(てがら)にもならない」ということである。
威張るべきなにものをももたない己れに目覚めて、素直に「あやまり」「お礼の言える人間になれよ」ということなのである。