如来は大安心の大悲を垂れこの私の実相に目を向かわせる
『自己を灯と為す』
「めざめを歩む」 雑賀 正晃著参照引用
「超世(ちょうせ)の悲願ききしより
我らは生死(しょうじ)の凡夫かわ
有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど
心は浄土に遊ぶなり」 『帖外和讃』
「往生浄土」とは断じて「死んで後」のことではない。浄土から来る光の中でいま「目ざめて」その「めざめを歩む」ことをいうのである。
ある人が碁を学ぶ為に本因坊をたづねて、
「碁の強くなる秘訣があれば教えて頂きたい」
と懇願したところ、本因坊はたった一言
「それは、どうしても打たねばならぬ石を相手より先に打つことだ」
と答えたという。
けだし名言である。
しかし、打つべき所に打つということは簡単なことではない、本因坊にしてはじめて言えた言葉であろう。
人生も然りである。
まず根本の問題を解決せずして「華開く人生」は望むべくもない。
「往生浄土」の道こそなににも増して傾聴すべき、そして体得すべき道なのである。
“ただひとりただひとりぞと思うとき 弱き涙は流れずなりぬ”
と歌った人がいる。
浅田強子という人の歌なのだが私はこの人を知らない。
しかし、間違いなくこの人は救われている。
往生浄土の道が歩めている。
こんな人に私は逢いたいと思う。
ご主人に先立たれたのか、愛し児を先立たせたのか、それとも信じ切ってきた人に裏切られたのか。
とにもかくにも「ただひとり」の人生の悲しさに遭遇したに違いない。
業道(ごうどう)はまさしく「ひとり旅」である。私の人生のたとえ一日、いや半時たりとも他人に変わってもらうことは不可能なのである。
芝居の代役はあってもこの人生に代役はない。
“独生独死独孤独来(どくしょうどくしどっこどくらい)”
と説かれ、
“ただひとりこそ行きなんずれ”
と教えられるが、そこに人生の実相がある。