なるようになるさと考える それで心軽くしよう

この人生を生きる』「宿命と宿業」雑賀 正晃 引用参照

自分の人生を、自分で切り開く道をおしえるのが、「業」なんです。

とかく、運命の神が私の人生をあやつっているように考えがちなのです。

だから、「祈り」が出てくるのです。

前の世から総てが決まってしまっているように考える人も多いのです。

それを宿命外道といって、仏教では間違いと教えるのです。「宿業」と「宿命」を混同してはなりません。

運命の神が、あやつるのではありませぬ。総てが前世から約束されているのでもありませぬ。

「業」とは、私のやりかたで、どうにでもなる、と云う事なのです。

よく、「業だから仕方がない」という言葉を耳にします。これは、業の片面なのです。

もう一つの大切な片面をしりましょうね。

それが大事なんです。(略)

業とは、自分の為した事が、自分に戻って来る。

という事なのですがら、此の世を、喜んで歩むのも、悲しんで渡るのも、私のやり方次第と云う事が出来ましょう。

一寸した言葉で、相手を泣かす事も、笑わす事も出来るのです。

ほめて貰えるか、馬鹿にされるか、私のやり方次第です。とすれば「業」は「仕方ある」のじゃありませんか。()

「人間はその為す事によって差が生ずる」事をこそ銘記すべきであります。

「なるようになる」のです。

夫が、暑い中を、疲れ果てて帰って来る。

流れる汗を拭き拭き、「只今!暑かったなあ」「そりゃ、暑いわよ、夏じゃもの」とでも言ってごらんなさい。

「何を!()!」となるのです。

それを、コツコツと靴音がする、飛んで出て、「お帰りなさい、暑かったでしょう、本当に大変ね、今、水をおもちしますわ」とでも言ってごらん。

思わずニコリとして「いや、それ程でもないさ、すまんなぁ」となるものです。()

テクニックじゃない、心のふれあいです。

「なるようになる」「仕方ある」私達は前向きに歩きたいものです。