「本願力に遇いぬれば空しく過ぐる人ぞなき」 如来さまを身体全体で聞く 

喜んで生きる』  雑賀正晃参照引用 

北九州市のあるお寺に、はじめてご縁をいだいたときのことであります。

本堂に出て、ご法話を始めたとき、実は驚いたのです。そして、いかにも嬉しかったのです。

といいますのも外ではありません。

演台の前に座っていらっしゃるお婆さんなのですが、海老のように曲がった腰を無理矢理伸ばして、仰ぐようにまでしてこの私を見つめながら、私のひと言ひと言に大きくうなずき、そればかりか「ハイ、そう、ハイ、ハイ、ハイ!」聞き入るにつれて、声にまで出して相槌をうちながらの聴聞なのです。(略

実に聞き上手なお婆さんなのです。

しかもそのお顔 の嬉しそうなこと。

まさに光顔蘶蘶(こうげんぎぎ)そのものあります。

時には合いの手も入るほどの聞きっぷりに、こちらも愉快になって、そのお婆さんひとりに対して語りかけたほどの一時間でありました。

さて、ご法話を終えて部屋に帰りご住職に

「こんな嬉しいご縁あるものじゃありませんよ。聞き上手というのは、まさにあのお婆さんのことだ。」

と、その喜びを語ったのです。

するとご住職このとき、何ともいえないお顔をなさったものですから、

「どうなさいました?」

とたずねますと、

「(略)実はとんと耳が聞こえないんでございますよ。」

いやはや驚きました。

「すみませんが、お婆さんにここに来て貰って下さいませんか。(略)字が読めるのでしょうか」

「ええ、カタカナなら(略)」

「ハナシガキコエマスカ」

「はい、聞こえます」

その時のご住職の何とも驚いたお顔が見ものでした。

「私は六十四歳のときたいへんな熱病を患いまして、その時から(略)聞こえないのでございます。

でも高座の下に座って先生のお口の動くのをじっと見ておりますと如来さまのお声がハッキリと聞こえてきて下さいます。」